アドラー心理学とは
アルフレッド・アドラーの考える
心理の在り方です。
そもそも心理学を理解する事は難しい。
会った事もない誰かに
『あなたの気持ちは合理的でないね』
『どんな人もこの理論に当てはまっているんだ』
と言われても、理解できないのと同じだと
私は思います。
しかし、心理を解き明かそうと本気になった人の話
と、きちんとした納得があると
自分の心を気にかける暇もない現代人にとっては
ありがたい学問ではありますね。
私が知る限りアドラー心理学では、心の動きを
今いるマイナスの状態からプラスに変化させる動き
としているみたいです。
そしてそれはすべて思い込み、
実際には今の状態を
どうしてもマイナスと捉える傾向にあるそうです。
それと、アドラー心理学では
個人がもっとも小さな単位であり
心と体という個人より細かい概念を持ちません。
心と体、意識と無意識、感情と思考は矛盾しない
とされています。
『なんのこっちゃ?』と思われるかもしれませんね。
私の考えるところ
1人の心の在り方ではなく
1人の人間社会での在り方であり
人の内側を考えたものではなく
人の外側を考慮した内容に特化している
ということでしょうか。
知識の乏しい私なりにアドラー心理学を
簡単に読み解いてみました。
興味が出た方は、詳しく学んでみてくださいね。
アドラー心理学流の鬱とは
わりと敷居の高い印象を受けるかもしれません。
しかし、心のケアを柱とする他の治療に比べ
他人への関わりを重視しているため
これまでの取り組みに疑問を感じている方は
試してみてもいいかもしれません。
これまでの記事で私も取り上げてまいりましたが
1人で鬱病になる事より、人間社会により
鬱病を発症する方のほうが
はるかに多いと思われます。
その根源は
自分以外に認められたい、理解してほしい
といった欲求があるからです。
アドラー心理学の中でも
承認欲求という名前で出てきます。
アドラー心理学では、こうした
人間同士の関わりによる鬱病が
指摘されています。
例えば、親子を例にあげると
わかりやすいです。
親は、子どもに希望を託します。
その関係が、お互いの望むものであれば
問題は起こりません。
しかし、親と子の意見が
一致していない場合、
親は子に対しヤキモキしてストレスをため
子は親のプレッシャーにストレスをためます。
互いに憂鬱になるこの状況は、
人と関わらないと起こらない現象です。
良い選択肢はないのか?
アドラー心理学で、大切と言われているのが
自分が今行っている事柄が
誰の課題であるのかを知ること
とあります。
人の顔を伺うあまり、なんでも引き受けていると
結果的に自分にとって大切な課題が疎かになり
他人の為に生きているような状況に陥るのです。
その相手が親などならまだしも、
会社の仲間などであったとしたら
負担ばかり背負い、美味しい思いをするのは
他人ということになります。
これは悲しい、その事実に気が付けば
きっと酷く憂鬱になるでしょう。
もし人が信じられなくなったりでもしたら
鬱病へまっしぐらです。
そういった事からも、その課題がいったい
誰のものなのかが
とても重要になってくるのです。
嫌われる勇気とは
アドラー心理学は、
勇気の心理学とも言われます。
また、アドラー心理学の考え方を鬱病にあてはめると危険
という声も多く聞かれます。
その理由が、
誰の為に生きるかを
迫られるところにあります。
先ほど課題の話をしました、しかし
自分らしく生きようとすれば
他人の課題を断る必要が出てきます。
これにはかなりの勇気がいります、
そして嫌われる覚悟も。
嫌われてまで、リスクを負ってまで
なぜ自分らしく生きる必要があるのか?
この一点から、賛成派と反対派に
分かれるようです。
アドラー心理学では、その必要性を
他人の為に生きた場合の代償として
説いています。
自分にとって、関わる全ての人が
他人となります。
もし、自分の行動を他人に委ねる場合
全ての人からの課題を
クリアする必要が生まれます。
かなりの苦汁となりますが、それ以上に
課題が対立する内容だった場合
クリアすること自体に無理が生じます。
結局、そんなことはできず
嫌われず波風立てず生きるというのは
かなりの矛盾が生まれることになります。
また、こうもいっています。
自己中心的とは、他人に課題を課す事
そう説いています。
都合よく自分の利益を優先して、課題を
他人に押し付ける人間は
後に人間社会に適合できなくなると。
そのことを逆に考えてみましょう、
嫌われないよう奉仕していた人は
自分にとって
それほどの価値があるのか?
課題は自発的に行ってこそ
意味が生まれます、
一度きりの人生
自分のために生きたいものです。
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